2019年02月26日

2/26放送 「まちかど通信39」〜縄文時代からの歴史の宝庫「加太」☆

(今日の放送はこちらからお聴きいただけます)

「まちかど通信39」
今回は加太地区をご紹介。
今日は加太地区の歴史について
加太地区連合自治会 副会長藤井保夫さん
にお話を伺いました。


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藤井さんは考古学がご専門。
(日本考古学協会の会員でいらっしゃいます)

加太の歴史についてお話しいただきました。


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和歌山市の西端に位置する「加太地区」。
目の前には淡路島、紀淡海峡に面した海の町です。

縄文時代以来ずっと人が住んでおり、
弥生時代あたりから土器に海水を入れて煮詰めて塩を作る
製塩(塩づくり)がとても盛んに行われるようになりました。

この加太の塩は、奈良の平城京などに運ばれていました。

塩づくりが盛んであった当時の加太は、
交通の要所でもあったようです。

飛鳥時代から奈良時代にうつるころ、
加太には駅家(うまや)、今でいう「道の駅」が出来ました。

奈良の都から紀伊の国、淡路の国、四国の4つの国をひとつに結ぶ
幹線道路が加太を通り、港として発展してゆきます。
そこに、「駅家」が置かれるわけです。

このような道(南海道)を通じて、都に塩を運んでいました。
「塩の道」ですね。

そして江戸時代には、四国の物産がどんどん加太の港に集まり栄えたそうです。

江戸時代も終わりに近づくと、ロシアなど西洋の列強が、
鎖国をしている日本に開国を迫ってくるようになります。


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幕府は危機感を覚え、砲台、台場を作っていきますが、
明治になると、西洋式の砲台をどんどん作り外国船の往来を阻止。
加太はそういった意味でも重要な位置づけであったと言えます。

ところで、加太の産業と言えば漁業
これは古くは縄文時代から盛んであったようです。

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藤井さんによると、加太の漁業は縄文・弥生時代から盛んでしたが
とくにピークは江戸時代の後半で、そのころ加太の漁船は
房総半島沖まで漁に出ていたと文書に記されています。

ところで藤井さんたちが今とりくんでいるのは、
「葛城二十八宿(かつらぎにじゅうはっしゅく)
日本遺産に登録しようという取り組みです。

葛城二十八宿(かつらぎにじゅうはっしゅく)とは、役小角(えんのおずね)が
法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚で、
和泉山脈〜金剛山地の山やその付近の寺社を中心に二十八ヶ所あり、
現在も修験道の行場となっています。

「日本遺産に登録して、人・お金を呼んで来ようと
仲間たちと取り組んでいます。」


また、行場と言えば、友ヶ島には5か所の行場があります。
虎島(とらしま)には序品窟(じょほんくつ)・観念窟(かんねんくつ)
という会食洞穴があり、その中に行場があったりするんだそうです。

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藤井さんは
「これだけでも見どころがいっぱいですが、
加太に来ていただきますと、縄文時代から
明治・大正・昭和までのすばらしい歴史遺産がたくさんありますので
是非来ていただきたいと思います。」

と熱く語ってくださいました。


加太支所はこちらをクリック!

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明日は「暮らしのゲンキ」です。
お楽しみに。


posted by 和歌山 at 07:25| 和歌山 ☁| まちかど通信(2018) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする