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今日も「暮らしのゲンキ」をお届けしました。
シリーズ「南方熊楠生誕150周年」。
今回も、
明治の初めに熊楠が受けた教育についてお伝えしました。
和歌山中学時代の熊楠は、
その後の熊楠の原点と言われています。
和歌山城整備企画課学芸員の武内善信さんのお話です。
明治の初め、熊楠は、
学校制度が整うのと同時に学校で学びました。
和歌山中学校(現在の桐蔭高校)が出来た時も最初の入学生として
学校で学びました。
当時の和歌山では、洋学(西洋の学問)が盛んでした。
明治の初め、和歌山では
日本で最初のドイツ語の辞書が作られようとしたり、
幕末には、紀州藩から慶應義塾にたくさんの塾生を送り込んだ
と言われています。
紀州藩出身で主な人を挙げると
小泉信吉(こいずみしんきち)、
その息子が小泉信三(こいずみしんぞう)で
慶応義塾の学長を務めました。
また、文部大臣を務めた鎌田栄吉(かまたえいきち)も
慶応義塾の塾長を務めていました。
紀州藩から派遣された人です。
そういった人たちが、和歌山中学校でも教えていました。
熊楠は、そういった優秀な先生から学んでいました。
熊楠は、幼少の頃「和漢三才図絵」を書写していましたが、
和歌山中学校時代には、なんと
「動物学」という本を執筆しています。
この本は、和・漢・洋の書物を参考にして、
新しい生物学を身に付けたうえで、このような本を4冊執筆したと
言われています。
このように、西洋の学問を学ぶことが出来た熊楠は
鳥山啓(とりやまひらく)や慶応義塾で学んだ人から
教えてもらうことが出来ました。
やはり優秀な先生がいたということです。
「語学の天才」と言われた熊楠ですが、
その基礎は、和歌山中学校時代に、この和歌山で
培われたということです。
明日は「ゲンキトピックス」です。
お楽しみに。