2017年03月15日

3/15放送 「南方熊楠生誕150周年記念」シリーズ@

(今日の放送はこちらからお聴きいただけます)

水曜日は「暮らしのゲンキ」です。
今年は「南方熊楠生誕150周年記念」の年。
そこで、今月からシリーズで「熊楠」について
お伝えします。


南方熊楠生誕150周年記念ロゴマーク.jpg



第1回の今日は、
「熊楠生まれ育った場所」について
和歌山城整備企画課の武内善信学芸員にお話を伺いました。

南方熊楠は、ちょうど150年前の
1867慶応3415
旧暦ですので、今の5月18日。
明治維新を迎える前の年。
大政奉還など激動の時代に生まれました。

産まれた場所は、今の和歌山市橋丁(はしちょう)で、
5歳の時に同じ区画内の寄合町(よりあいまち)
引っ越しています。

その前に、当時の城下町和歌山ですが、
当時は9万人と、全国で8番目の人口を誇る大都市だったそうです。

しかも城下町の範囲は今の和歌山市よりずっと狭く、
町人はその市街地の中の、更に3分の1くらいの場所に、
およそ6万人が住んでいました。
ですから、とても人口密度が高く
ひしめき合うように暮らしていたようです。

その中でも、熊楠が生まれ育った橋丁や寄合町は、
どんな場所だったのでしょうか?

城下町和歌山のメインストリートは、今の本町通り
当時の和歌山城「大手(おおて)」、
いわゆる京橋から大阪や奈良へ向かう中心的な道ですが、
当時は、もうひとつ
大手が南北のメインストリートであることに対して
東西のメインストリートがあったようです。

それが、寄合町、卜半町、福町、駿河町といった4つの町。
戦前には四丁町(しちょうまち)といわれた通りが
東西のメインストリートだったそうです。

京橋や中橋など、今「一番丁」「二番丁」といった
「番丁」に行く橋がありますが、
江戸時代には、これらの橋は和歌山城の「外郭」
お城の中に位置していたのです。

ちなみに和歌山公園になっている場所は、当時の「内郭」
藩の屋敷などがあったところが「外郭」
それらはお堀で囲われていたそうです。

そのお堀は、西にも東にもあったため、
例えば、
本町通りにいる人が、吹上などお城の南側に行こうと思うと、
今の国道42号のような道はなく、
寄合橋を渡って、湊本町など湊方面を通って
吹上方面、和歌浦方面に向かったとされています。
(かなり遠回りでした。)

そのため、寄合町や橋丁は、人通りが多く
とても賑わっていたようです。
寄合橋は、人々が集まる、寄り合う橋として名付けられました。

熊楠が生まれ育った場所は、
当時大都市だった「城下町和歌山」のなかでも、
最もにぎわっていた場所だったといえます。


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明日は「中学校訪問」です。
お楽しみに。

posted by 和歌山 at 07:25| 和歌山 ☁| 暮らしのゲンキ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする